孤独好きは死ねば究極の孤独が手に入るかも

人は歳を重ねるとさまざまなことに慣れる。慣れは年齢だけに限ったことではなく、年齢を乗せる時間そのものの中に存在している。そして自身を客観視する視線を養うのはその時間の中で出会う人々の存在が大きい。

1人でいることが好きだという人は、なんで1人が好きかを考えてみるといい。他人がいるからこそそれが多数いる状況と孤独とを比較し、「1人が好き」と思うのだ。そもそも他人というものが存在しなければ孤独というものは存在しない。

ではなぜ孤独が一般的な思想では「かわいそうである」といった解釈になるのか。それは親の存在、しいては生命の根源に答えが隠れているように思われる。人は常に何かに囲繞(いじょう)されて生きている。囲繞はiPhoneの辞書によると「周りをとりかこんでいること」だそうだ。空気だって、生死だって、気温だってなんだって我々の周りを取り囲んでいることは明らかだ。そして命ある限り、ご先祖さまからのリレーはずっと続いているのだ。

本当に孤独になりたければ、先祖代々受け継いできた命を絶つほかないのかもしれない、なんていう極端な考えでも話を発展できるがここはあえて近くとも遠からずの話にしたい。

孤独が悲しい事象である答えは生きているからにほかならない。筆者が孤独を感じているわけではないのだが、孤独について考えていたらネズミに話しかける獄中の牢人を思い浮かべた。

そしてSNSに張り付いて離れられない人もまた、獄中の牢人のような環境に囲繞されているような気がした。